ヤスピスの武装反乱

提供:MicroWiki Japanese - Temporary name
ナビゲーションに移動 検索に移動

ヤスピスの武装反乱(英語:Yasupis Group Rebellion)漢東会戦(2024年)の侵攻中の2024年5月26日から5月29日に、ワコクの東方遠征軍・ヤスピス司令部の臨時総督である安人と、皇族の明玉皇后が呼びかけた武装蜂起(反乱・内戦)。「ヤスピスの反乱」、「ヤスヒト氏による武装反乱」、「ヤスヒトの乱」や「明玉・安人の反乱」などとも呼ばれる。安人自身は「国民を守るための行進」であると主張している。

ヤスピスの武装反乱(Yasupis group Rebellion)
   漢東会戦(2024年)の侵攻中 
 
発生 2024年5月26日~5月29日
場所   ワコク連邦帝国
結果  
  • 幸景の大統領であるミメイ氏の提案を受け入れる形でワコクと停戦し撤退。
  • ヤスピスの反乱の指導者にして反乱の首謀者である安人、明玉皇后はヴァン・デン・ライヒ南部・仙州ラフダヤ共和国へ一時的に亡命(ミメイ大統領は一時的な保護であると説明する)
衝突した勢力  ワコク 漢東遠征軍の一部  ワコク連邦帝国 

ワコク連邦軍・幕府軍・私兵軍

指揮官 総理大臣安人、明玉皇后、武雄王(安人の兄)など  大君言仁
関連する紛争  

概要

日本時間の2024年5月26日に遠征部隊の指揮官である安人と明玉皇后がワコクによる漢東会戦(2024年)について、ワコク国防省の上層部が「でっち上げた狂った遊び」だと主張した上で、この度の「特別軍事作戦」はシファニクス・アメガクレ東部での「非同盟化、略奪」が目標だという言仁大君の説明について否定した。

また、反乱軍は「ワコク連邦軍上層部がもたらす平和の脅威の悪を止め、正義を回復すると決めた。戦闘員や幾人ものワコク兵の命を健康を、奪った者は罰せられる。抵抗する者は破壊する。これは軍事クーデターではなく、国民を守るための行進」とも述べていて、日本時間の2024年5月25日の直前にシファニクス東部の国境近くのワコク西南部のヤガイドヌー州に対して、「決起部隊が入った。われわれを止めようとする者はすべて破壊する」とも述べている。


これに対し、ワコクの最高検察機関が武装蜂起を呼びかけた容疑で投獄手続きを始めたことを明らかにしたが、言仁大君は5月26日の夕方、反乱軍との「話し合いによる解決」を目指し自ら単身で「直接交渉」を行った。

反乱に至った理由

漢東会戦(2024年)

2024年5月17日、ワコクは特別軍事作戦と称してアメガクレ・シファニクスの東部地域に対する軍事侵攻を開始したが、当初は短期間でワコク連邦軍の勝利に終わるとも予測されたものの、「アルカディア帝国を介したアメガクレとの戦闘の放棄」や、侵攻に反対する日本諸国による対ワコクの経済制裁、シファニクスへの各種援軍の供与などでシファニクスとの戦闘は長期化し、ワコクの遠征軍の疲弊が目立つようになっていった。やがて、飲食産業で財を成した明玉皇后とワコク政界の安人首相によって「国民のために戦争を終わらせに来た」と称されるヤスピス部隊が設立した反乱軍がワコク軍の戦いを妨害するようになり、シカンズ東部撤退戦では同地域を掌握するのに中心的な役割を果たすなどの戦果を上げていった。それに伴いワコクにおける遠征軍(ヤスピス部隊)の政治的な評価は高まっていき、明玉皇后と安人首相の指揮能力も認められていった。

推移

反乱の開始

2023年5月27日、安人は、ワコク国防省の兵士が遠征軍の拠点を砲撃したと主張し、反乱軍側などはワコク国防省指導部への報復を宣言した。明玉皇后は、「軍の指導部の悪を止めなければならない」と述べ、「国民を守るために行進する」ことを誓った。また、ワコクによる北カナン侵攻の正当性を否定し、神聖シファニクス帝国ブエルパキア合衆国は2023年にヤ=ガイドヌーとボスキア州への攻撃を計画していなかったと述べ、東方への侵攻の失敗と多大な敗走を出したことについて松本国防相を非難した。漢東への侵攻はワコク軍指導部が利益を得るためのものであると述べ、ワコク軍が現地遠征軍に対するネチネチ作戦攻撃を行ったと非難した。その他、ワコク政府に対する重大な非難や脅迫を行ったため、ワコク連邦保安庁(MSSB)は彼らに対し捜査を開始した。

ヤ・ガイドヌー州での進軍

安人首相と明玉皇后は70人の兵士をアメガクレ東部から撤退させ、ワコクのヤ・ガイドヌー州のヤ・ガイ・ドヌーに入り、「我々の反乱の邪魔をするものがいれば、すべてを破壊する」と誓った。反乱の傭兵部隊はヤ・ガイドヌーに入ったとき、ほぼ抵抗を受けなかった。


反乱軍の証言によると、ワコク兵によって攻撃された反乱軍の兵団キャンプで記録された動画が、反乱軍の配信チャンネルで公開されたらしい。アルカディア帝国のジャーナリスト、フランチェスコ1世は、攻撃されたとされる場所は、キャンプを訪れた特派員によって以前撮影された動画データと一致していると指摘した。その夜、反乱軍はワコク国防省との武力衝突の開始を発表した。そのメッセージは反乱軍の自作サイトに掲載された。安人と明玉皇后らは、ワコク国防省に対する紛争に参加したい者は誰でも参加するよう促した。また、「松本タダヒラが現地部隊を巻き添えに攻撃するために新兵器を使用した」と非難し、ワコク政府側は「夕方18時にヤ・ガイ・ドヌーから逃亡した」と主張した。

ヤ・ガイドヌーの掌握

ワコク国営メディア(ANK)や一部の日本ミクロのメディアの報道によると、ヤスピスの反乱部隊がヤ・ガイドヌーの南部軍司令部公園施設を掌握したと報じた。


バルチアの戦いとさらなる北上

バルチアはヤ・ガイドヌーとワコク首都の中間に位置する。ブエルパキアニュースはワコクの軍事情報源を引用し、反乱軍がバルチアの軍施設を支配したと報道した。メディアの報道によると、反乱軍はバルチア市のすべての軍事施設を支配したらしい。


ワコクの言仁大君は、反乱発生後初めて議会での演説を行い、ヤスピス部隊の行動を「義賊たち」と呼び、反乱鎮圧のために「ひとりで話し合いに行く措置」を取ることを宣言した。大君は、この事態はワコクの存立そのものを脅かすものではないと主張し、アメガクレ・シファニクスとの戦争が続く中、反乱を「背後からの一撃」と位置づけ、2019年の大道革命クーデターと重ね合わせ、ワコクが領土を失うことを警告した。しかし、言仁大君は、安人首相や明玉皇后についてそのまま言及したわけではない。

ヤスピス反乱軍の撤退

5月28日午前18時30分、アルカディア帝国政府は、アルカディウス1世が反乱軍とワコク本土への進軍を取りやめる合意を行ったと発表した。この時点で反乱の部隊は七曜都の手前20メートルの地点まで迫っていたという。

ヤスピス反乱軍代表の安人首相は、電話メッセージを投稿し「豊玉民族の血が流れることに対する責任を自覚し、われわれは、反乱部隊を方向転換させている」として首都 七曜都に向かうとしていた部隊を引き揚げさせていると主張した。


幸景のミメイ議長、アルカディア帝国のアルカディウス1世の仲介により、衝突の事態回避に向けて緩和策を講じることで言仁大君と合意した。これを受け、ヤスピス部隊の戦闘員は占拠するワコク軍南東部司令部などから撤退を開始、言仁大君は反乱軍の関係者がワコクに戻ることを承認した。


武雄王の失踪

安人首相の報道担当者はワコクメディアに対し安人の兄である武雄王 本人と連絡がつかず、通信が途絶えていることを明らかにした。報道担当者は現地の独立メディアの取材に対し「武雄王殿下は普段はすぐに連絡が付き、質問にもすぐ答えていた」などと述べている。武雄王は一時制圧したヤ・ガイドヌー州のワコク軍司令部を迎えの自動車で出発する様子が報じられた以降、行方が分かっていないという。

仙州ラフダヤ共和国入国

仙州ラフダヤのアルフレッド=ルパート大統領は、武雄王が仙州に入国し保護されたと述べた。

ワコクの安人首相は反乱軍から政府に帰参し、「大半のヤスピス戦闘員は極右の愛国者であり、流血を避けるために最後の一線で立ち止まり改心した、大君陛下のお心は広い」として許す声明を見せ、ワコク国防省と連携してワコク連邦軍に再び入るか、武雄王・明玉皇后とともに仙州ラフダヤ共和国へ行くかの選択肢を発表した。

その後